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斜めに横断する臨床=思想、信田さよ子、松本卓也、現代思想2018年1月号

2018/030/31、斜めに横断する臨床=思想、信田さよ子、松本卓也、現代思想2018年1月号

*2018/04/30 追記:
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/230488

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信田 ()例えば精神科医の斎藤学さんは「分析はアディクションの治療には効かないから」と明言されていました。自助グループでは依存症者は回復のために、決して自分のなかに錘を下ろさずに、外に外にと広げていきます。今おっしゃった「垂直から水平へ」と言えることが、依存症の回復にはとても有効であるということを本当に素直に受け入れられたのも、「分析は依存症には効かない」という暴言に近い断定があったからです。
松本 ()垂直方向にあう心の深みの報に行くことではなく、水平方向にある人間関係のほうにどう開くかが重要になったわけですね。p.70、上段

松本 確かに垂直方向の議論は、ある意味では物事を神秘化し、同時に極端に単純化してしまう側面があります。しかし、依存症の世界では、信田さんの本を読むとわかるように、水平方向において生じていることのなかに記述すべきことが山のようにある。単純化を可能にするのは垂直方向の理論の利点でもありますが、他方で、「死の欲動」や「反復脅迫」といった概念を使えば、すべてを説明することができてしまい、それ以上物事を考える必要がなくなってします……垂直方向の理論はそのような危険性を孕んでもいます。しかし、垂直方向だけで構成され、水平方向によって下支えされていない臨床は、実は役に立たない。21世紀になって、そのことがはっきりと見えてきたのではないでしょうか。p.72、上段

松本 ()2010年代的な視点から見ると、やはり当時の論調は「統合失調症中心主義」というパラダイムに収まるものだったと思います。すなわち、「統合失調症は人間存在そのものの病なのだ」というふうに、統合失調症を垂直方向の究極の他者とみなす論調が多くみられます。また、統合失調症中心主義は、その裏面として私が「悲劇主義的パラダイム」と呼んでいるものを持っています。それは、「統合失調症は、人格や理性がどんどん解体していってしまう病であり、その経過は人間にとって悲劇的である。しかし、その悲劇と引き換えに、彼らは人間の真理を暴き立てることができるのだ」という考え方であり、東堂失調症の患者さんを悲劇のヒロインとして見るものです。『imago』の最終号(96年12月号)において内海(健)さんは、狂気のそのような疎外的ないし弁証法的理解に対して「いささかも自らに態度変更を要請しない」学という否定的評価を与えています。狂気のなかに人間の真理を見て取って、「狂気に学ぶ」と言いながら、自分は上から構えて何も変わらないという体制はやめるべきだというのです。この言葉は、おそらくは当時の主導的パラダイムへの批判だったのでしょう。後に内海さんはそのことを『「分裂病」の消滅』(青土社、2003年)という言い方で表現するわけですが、それはつまり「狂気のなかの狂気」としての統合失調症(「分裂病」)に人間の真理をみるという垂直方向のパラダイム自体が終わっていくことと関係していました。//精神病理学が立ちすくみ、進むべき方向を見失ってしまったのもちょうどその時期ではないでしょうか。そうこうしているうちに、臨床と人文知の交点というフィールドに空白地帯ができてしまった。そこに、信田さんが出てきたのであって、さらには現在のその他の水平方向的な臨床が人文知と関係を結びつつある、というふうにも見ることがでます。pp.74-、中段

信田 ()『依存症』にも書きましたが、私は依存症についていろいろな文献を読みましたが、ほとんど役に立ちませんでした。一番役に立ったのは、清瀬にある救護施設、今で言うところの社会福祉復帰施設に週一日仕事に行っている時に出会った一人の依存症者との対話でした。彼は断酒七年目の回復者である職員でした。その人がいろいろなことを話してくれたのですが、それが唯一の教科書でした。そのとき一番大きかったのは、深く考えると酒が飲みたくなるということです。だから自分を掘り下げるなと。私にとってはこれが最大の天啓で、「そうか、自己洞察って意味がないんだ」と解放された気分でした。p.76、上段

信田 私はやっぱり「おせっかい」という言葉を思います。アディクションへの支援って、究極のおせっかいじゃないですか。本人は「死んでもいい」と言っているのに、「飲んだら死ぬよ」と言ったりだとか。それって本当におせっかいですが。()おせっかいってやっぱり必要だなと思いました。「それ危ないよ」とか、そういうものですね。それを正当化する根拠とは何かと聞かれも分からないのですが。p.78、上段

松本 垂直方向から他者に対してパターナリズムをふるうのではなく、水平方向の他者におせっかいする。
信田 「仲間性」と言い換えてもいいかもしれません。でも専門家もおせっかいしたいですよね。
松本 なるほど……そうですね(笑)。
信田 今日このままカウンセリングにやってきた女性を帰してしまったら夫からの暴力を受けるかもと思ったら、おせっかいしなくちゃいけない。
松本 そういう場面で、まさに「おせっかい」や水平方向の集団の力が効果的に働く。20世紀の現代思想やそれと関連する心理の言説は、基本的にハイデガーから強い影響を受けていました。ゆえに、水平方向の身近な他者とのおしゃべりなどというものは空虚なものにすぎず、そんなことしていては本来的な自己を見失ってしまう、と考えられることが普通でした。「身近な他者がこういうふうに言っているから自分もこうするのだ」などというのは「空談」でありさらには「頽落」であり、自分が死へ向かう存在であることを先駆的に覚悟して、共同体の運命に目覚めることこそが本来的なのだ、と考えられてきたのです。その心理への応用が、50年代のラカンにおける「空虚な語り」に対する「充実した語り」の偏愛であり、心理臨床一般における「浅いおしゃべり」に対する「深い内省」の偏愛です。//信田さんの自助グループについての記述で非常に興味深かったのは、自助グループでは、そのグループで使われている独特の話法が「伝染る」、つまり感染するということです。例えば、語尾に「ね」をつけるとか、ミーティングで「おろす」とか「つなげる」とかいった言葉が使われるようになる。グループに参加してそのような言葉を使えるようになると、皆と仲間になれた感じがもて、次第に回復の方向に近づいていくと言われています。これらの現象は、まさにハイデガーが「空談」ないし「頽落」だと評したことそのものですよね。他の人がこう言っているからこうする、ということですから。ある種の固定化されたハイデガー主義を乗り越えることが20世紀後半から21世紀にかけての現代思想の課題であったとすれば、自助グループはその方向性を地で行っていた。自助グループはアンチ・ハイデガー主義なのだとも言えると思うんです。//もちろんハイデガー研究のなかでも、ハイデガーはそのように単純化されるだけの存在ではありません。例えば高田珠樹さんが2013年に『存在と時間』の新訳を出されていますが、その翻訳では、『存在と時間』の第74節において、死を先駆的に覚悟した現存在の運命は共同体の運命の運命に初めからすでに導かれている、とこれまで訳されてきた一文の「導かれている(geleitet)」という語は、どうやら「〔他者に〕同行されている=共に歩む仲間がいる」と解釈したほうがよいのではないか、と指摘されています。「共同体において共に歩む仲間がいる」ことを重要とみなす哲学としてハイデガーを読み替えることができるのです。そうすれば、20世紀において垂直方向の思想のパラダイムとなったハイデガーを、水平方向へと開くことができる。近年では、サイモン・クリッチリーも、ハイデガーから、人間における「根源的な非本来性」という概念を取り出しています(『ハイデガー『存在と時間』を読む』法政大学出版局、2017年)。つまり、死を意識しての垂直的跳躍でなく、のんべんだらりと生きるとか、退屈して生きるとか、そういった非本来的ものを人間の根源性として読み直すことができる。さらには、「頽落」であるとされた他者とのつながりこそが「良心の声」を生み出す、と考えることすらできる、と彼は言います。ハイデガーの読み直しという現代思想における大きなテーマと、信田さんのやってきた実践はどこかでつながっているのかもしれません。pp.78-、中段

松本 ()ユダヤ教の神は完全な垂直の神ですが、キリスト教の神は、神への愛と隣人愛が同じものとされるように、自分たちと同じ水平のフィールドまで下りてきてくれる神ですよね。となると、先ほどおっしゃられたように、垂直方向の軸と水平方向の軸の両者がつくる三角形こそが重要なのだと思えてきます。//今さらながらビンスワンガーの思想の重要性が見えてきたように思います。彼はハイデガーを基盤にして精神病理学をやった人ですが、ハイデガーが垂直方向の単独者の実存を過剰に重視しており、それでは他者と共にある存在から生じる「愛」の機能が議論されなくなるのではないかと述べて、『存在と時間』を批判してもいます。また、ビンスワンガーは「コンムニオ(聖体拝領)」「コンムニカチオ(分かち合い)」などのキリスト教の言葉を使って水平方向において生じていることを明らかにしようともしていました。先ほどのAAのお話に敷衍すれば、ハイヤーパワーに支えらえるからこそおせっかいができる、と言えるかもしれません。ユダヤ教の神のような超越的な他者がいた場合はパターナリズムにしかならないのだけれど、キリスト教的な神がいた場合はおせっかいができるようになる。p.79、下段

松本 ()垂直方向と水平方向の均衡のとれた三角形ができることが臨床においても思想においても重要なのではないかと思います。ビンスワンガーは、まさに「人間学的均衡」という言葉を人間の健康や回復と結びつけていました。「自分の存在とは何か」「死とは何か」といったハイデガー的な問いを立てる垂直方向と、仲間とワイワイガヤガヤする垂直方向のバランスが取れているのが回復するための条件だと。その意味では、すでに言われていた大事なことを我々がここで再発見しているかもしれません。p.80、上段

信田 ()援助職というのは目の前にいる人に役に立つということが原点です。p.81、上段

松本 面白いのは、オープンダイアローグは水平方向の実践に見えるのだけれど、実はセイックラ自身が水平の対話と垂直の対話の両方があるとしているところです。水平の対話をしているなかで、誰かが言ったことに関して自分の心のなかで垂直的な対話が起こって、それが回復に人を導くのだと。それは先ほどから話題に上がっている垂直方向と水平方向の三角形につながる話だと思いますし、思想と実践の両者において重要な枠組みなのかなと思います。p.81、上段

松本 信田さんは『依存症』の最後のほうで、依存症からい回復した人の姿は「去勢」されたようだと書かれていますね。ここで急に精神分析ワードが出てきた感じするのですが、いかがでしょうか。

信田 いろいろな意味がありますね。具体的なイメージがあるからこそです。

松本 この論点はすごく面白かったです。「男らしさ」というものは、現代社会が要請するルールに適応しないといけないという過剰な規範意識とつながっている。自分をコントロールできるのが男らしさだというわけです。しかし、そのコントロールをずっと続けていくことは苦しいので、アルコールなどの依存物質に頼らざるをえなくなる。逆に、依存症から抜け出すと、「セルフ・コントロールせよ」という要請から逃れて楽に生きているような状態になる。それが回復した人の姿だと言われています。//治療の中身はまったく異なっていますが、ラカン派も治療の前と後のことについてはよく似たことを言っています。ラカン派では、男性は女性をフェティッシュ化して「ファロス享楽」を得ていると言われていますが、その享楽もコントロールする快楽です。反対に、自分の手でコントロール不可能な享楽は、もしそれが自分の身に降りかかってきたとしたら致死的なものと想定されるがゆえに、男性はそれを畏れています。二村ヒトシさんが言うように、ふつう男性は自分がコントロールできる快楽だけしか得ようとせず、それ以外の快楽はものすごく怖がる。ゲイや女性を不当に差別するのは他なる享楽が怖いからです。自分がコントロールできると思っている享楽の外にある享楽を持ちうる人たちは、ヘテロ男性にとってすごく怖い。しかし、分析治療を経ると、ファルス享楽という体制をいったんご破算にすることができる。それは「空想(幻想)の横断」と呼ばれています。その治療の先には、社会的・エディプス的な要請とは関係ない、個人において表現される特異的な享楽の体制に辿り着く、と少なくとも理論上は言われています。他の人との関係から切り離された、一人だけで行う、ある種の自慰的な享楽の体制に辿り着くことができる、ということですね。「特異的(singulier)」というのは、「奇妙な」という意味でもあるし、「他と切り離された」という意味でもあります。その享楽は、現代社会の要請にも適応するような享楽でなく、むしろ一人で楽しんでいるような享楽である、と考えられているのです。そしてそこからこそ、新しい社会や他者とのつながりが可能になる、ということが拙著(『人はみな妄想する』青土社、2015年)のラカン理論の骨子です。//治療の前の状態と治療の終結後の状態という点から考えた場合、コントロールを放棄して個別的な享楽のモードに至るという枠組みが似ているようにも思います。洗練された心理療法(精神療法)は、ひょっとしたら同じ結論に辿り着くかもしれませんが。pp.81-、上段


信田 ()戦争の問題は基本的に暴力の問題ですよね。戦争の後は家族の暴力が激増しますし、沖縄の性暴力の問題も同じでしょう。水平方向のなかには必ず暴力の問題が入ってくる。()

松本 水平方向だけでは個人の責任を問えなくなりますね。他方、垂直方向の議論は司法の議論に重なります。責任ある主体として何を行ったのかが問題となる。その二つの極のあいだで何が起こっているかが臨床的には重要だということですね。

信田 家族の暴力はその「あいだ」の問題ですよね。

松本 信田さんは、アルコール依存の父-その妻-ACになる子どもという三組の関係においては「抑圧移譲」(丸山眞男)が生じていると指摘されています。「抑圧」であるとすればここにもやはり垂直的な関係が入り込んできている。精神分析的な立場からも似たことが言えるでしょう。父親は自分が理想とする神話的な「原父」には絶対になれない。父親は、大いなる父につねにすでに負けている。そういう不全感があるからこそ、女性に対して暴力を振るったり、女性をおとしめた上で「救おう」としたりすることによって自分の強さを確認しようとする。女性の側も、「解剖学的性差」によって、」自分が男性に比べて剥奪されているという思いがあって、その結果として子どもを自分に欠けていたものの代理物にする。父母の、そして母娘の支配-被支配に関しては、精神分析的にはこの構図から議論できるでしょう。原父がいるから父の側にも欠如が生まれ、その欠如を回復するために配偶者に暴力を振るう。その結果、配偶者のほうは何かを奪われていることが強く意識されて、子どもを支配してその欠如を埋めようとする。この一連のロジックのなかで、「世代間連鎖」のような事柄が起こっていく。精神分析は、このような連鎖を生み出す「何か」について「ファルス」という言葉をあてました。自分が持っていないように感じる何か、自分が他人から奪われていると感じるか何かのことを、精神分析ではファルスと呼んだのです。ファルスを解剖学的性差と結びつけざるをえなかったのはフロイト-ラカンの問題でもあるのですが、そのように一つの名づけを行い、あるひとつのものが家族の歴史のなかで循環しているのだと考えることによって、家族関係のなかでうまれる病理について見通しをつけることを可能にした。だとすれば、暴力はすべてのファルスとの関係で起こってくるということになるかと思います。突き詰めていくと、絶対に勝てない原父みたいなものがどこかにいて、それが「負債」を与えてしまったと考えることになる。その後の世代は、みんなその負債をババ抜きのように家族集団のなかで回している。システム論的な図式に近い古い理解ですが、現代でもかたちを変えてそのような現象が起こっていると思います。pp.82-、下段

信田 ()今、象徴的なものの機能が減衰している。ファルスにしても何にしても、象徴的なものは理解の一助にはなるのですが、それが機能しないというか元も子もないという感じって、ありませんか。

松本 あります。p.83、中段

松本 ラカンの『他のエクリ』に、「子どもについての覚書」という短い1968年の原稿が収録されています。p.83、中段 → 1969年?


松本 裏資本主義・
信田 だって、そんなに人は変われませんから、資本主義で脱落したのだから、裏資本主義で生き延びていくのかもしれませんね。p.86、上段

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