2019/05/12、パノニカ ジャズ男爵夫人の謎を追う、ハナ・ロスチャイルド、小田中裕次訳、月曜社
内容は大きく分けて、ロスチャイルド家(*)での子供時代、結婚生活と戦争時代、ジャズ男爵夫人として生きた時代の話から成る。どうしたわけか今一つ感動や知的興奮が沸き起こってこない。この印象はもしかしたら訳者がその解説で記していることに呼応しているかもしれない:富豪のコスモポリタンとして驚くべき半生を送っていたニカ夫人が突如として過去を捨て、しかもその行き着いた先が、なぜジャズとセロニアス・モンクだったのか、というのが著者の根本的疑問だが、ニカ夫人が実際にはどのような人物だったかのかということを含めて、どの答を本書がどこまで明らかにできたかという判断は、読者それぞれにおまかせしたいと思う。p.361 * “ zum Rotten schild”
は “赤い盾の家”という意味であり、16世紀の先祖の家名に由来するものだ。p.70
自由フランス軍に志願。夫を追ってアフリカに行き、戦線を飛行機(モス)で飛んだ話やイタリアを北上していく話は、映画(小説もある)『イングリッシュ・ペイシェント』を彷彿させる、信じられないような武勇伝だ。「同盟国軍は小さな勝利をもぎ取りながら、じわじわと前進した」「北に進撃して雪深いアルプス山脈を抜け、1945年初めにはテュランまで到達した」(ともにp.165)とあるのは「連合国軍」「トリノ(Turin)」のことだろうか。
1947年、メキシコとある写真や幼少期の写真のニカは実にきれいであったり可愛かったりするが「驚くような美貌はその後衰え、今やかつての繊細な容貌は男性と見まがうほどになっていた」(p.14)。このような記述が何度か出てくる。
(エマ(ニカの父方の祖母)は)三ヶ国語を話したが、いずれも軽いドイツ語訛りがあり、それぞれの言語ごとに別々の笑い方をした。p.44
ユダヤ人の中には、人種差別を避けるために信仰を変えた一族もいた。ロスチャイルド家はずっとユダヤ人であり、自分たちの宗教を誇りに思い、また重んじていたが、イギリスのロスチャイルド家では実際に信仰を遵守していた人々の数はほんのわずかだった。ニカはユダヤ教の戒律を教えてもらったことは一度もなかった。彼女はロスチャイルドと呼ばれること、つまりユダヤ人であると思われ、反ユダヤ主義に耐え、しかしその実、そこの属する習慣や文化に関する実際の知識が何もない、というのは混乱の元だと思っていたかもしれない。チャールズとロジカの四人の子供たちは、キリスト教も、ユダヤ教も理解できずに、その二つの世界の間を漂っていたのだ。ニカを別の世界の人間だと決めてかかる非ユダヤ人と、ロスチャイルド家の子孫は自分たちとは別だ、とすぐに決めつけるユダヤ人との間に挟まれたどちらでもない場所に、彼らはじっと留まるしかなかったのである。pp.79-
彼女が愛したのは生演奏で、この世に生まれた瞬間に消えてなくなるという形の芸術だ。ニカは何千枚ものレコードや、何百枚もの私家録音テープを持っていた()p.92
ニカが一つだけ守っていた伝統があった。一族の、特に女性たちは、恵まれない人たちを助け、地域のコミュニティで貢献するという姿勢をずっと持ち続けていたことだ。//(ライオネル・ロスチャイルドが1837年に賃借し、のちに購入した土地である)「トリング・パークで働くことは、揺りかごから墓場まで、という社会保障が受けられるということだった」pp.93
「(ミュージシャンが)いつでもニカに頼っているのを見たし、ニカがそれに応えるのも見ていた。彼女は、サンタクロースとマザー・テレサの全部を、ぐるぐると一つにまとめたような人だった」(セロニアス・モンクの息子トゥートの発言)p.94
一度ピアニストのバド・パウエルを数日かけて探したことがあったが、パウエルはニカのロスチャイルド・ワインを飲み干した後、ヘロインを手に入れるために街に向っていた。見捨てられたように街角にいたパウエルをニカは見つけたが、彼は友人たちの懸命の尽力のもかかわらず、もう救いのないような状態だった。ニカが寝る場所と食べ物を与えたものの、アルコールと栄養失調に起因する結核と肝臓障害のためにパルエルは亡くなった。ニカはハーレムで行われたパウエルの葬儀費用を負担し、千人もお会葬者が〈アイル・ビー・シーイング・ユー〉と〈ラウンド・ミッドナイト〉を演奏するバンドの後に続いた。相続した資産のおかげで、ピアニストのソニー・クラーク、テナー奏者のコールマン・ホーキンズのような他のミュージシャンの死も、ニカがきちんとした葬儀と埋葬地の手配をして、厳かに弔うことができた。ニカの慈善活動が、もっと現実的なものだったときもある。ライオネル・ハンプトンは、ニカが〈読む〉ことを教えたミュージシャンの一人だった。pp.297-
一族はあらゆる手段を使って、必死になってチャールズ(ニカの父)を救う方法を探した。信じがたいほどの影響力と洞察力があったにもかかわらず、彼らは途方に暮れた。ロスチャイルド家は富と権力という地位をようやく手にしていたが、この顔のない敵(鬱病)との闘いに使える武器は持っていなかった。ウィーンにいるフロイトという人物が奨励していた“説話療法(talking cure)”のニュースが伝わると、オーストリアの親族が派遣され、その精神科医の助言を求めた。他の親族や助言者は、別の薬物やサナトリウムを勧めた。当時スイスで治療を受けるのはごく普通のことだったからだ。T.S.エリオットやマックス・ランデルという人たちもその中にいて、鬱病やノイローゼの治療を求めてスイスに向っていた。ロスチャイルド家のアーカイブの中に、チャールズの仲間だったジョーダン氏がスイスのフジオから出した、1917年7月25日付けの手紙を私は見つけた。その手紙によると、チャールズはドイツの作家ヘルマン・ヘッセと一緒に、カール・ユングの弟子だったジョセフ・ラング医師の治療を受けていたようだ。私は、彼らがなぜライバルのジークムント・フロイトではなく、神秘主義的なユングを選んだのかを何とか知りたいと思った。ミリアム(ニカの長姉)が死ぬ間際に語ったのは、祖母のエマがフロイトの全著作を読んでいたということだった。pp.98-
どんな子供であっても、どこかの段階で、何らかのトラウマを経験するのだが、小児精神科医のアリス・ミラーが簡潔に述べているように、「情緒障害は、子供時代に経験したトラウマそのものでなく、むしろそれを表現できないことに原因がある」。p.105
ミュンヘンでは、二人(ニカとニカの次姉リバティ)はある絵画の講座を受講した。「ヒトラーが台頭していた時期だったけど、私たちは何が起こっているか気づいてなくて、二人がユダヤ人だと知っている人間が、私たちに乱暴な態度をとっているということがわかって、ようやく理解できたのよ」と、ニカは「エスクワイア」誌に語っている。
ヴィクター(ニカの兄)の妻バーバラはストレイチー家の出身で、ブルームズベリー・グループを主導する人物であり、彼女の母親メアリーはマティスとT.S.エリオットの友人だった。p.133
経済状況が悪化していたにもかかわらず、二人(ニカと夫のジュール)は壮大なものを求める意識が相変わらずあり、それにふさわしい豪華な物件を探した。それにしても、オスロのギレム城に家族で住むという決定は尋常ではなかった。なぜなら、そこは有罪となったヴィドクン・クヴィスリング〔ナチスの傀儡政権の指導者〕が所有していた城であり、彼はしばしばノルウェーのヒトラーと呼ばれていた人物だったからだ。1940年4月のクーデターを仕掛けたという大逆罪で有罪とされた後、1945年10月に銃殺隊によって処刑されたクヴィスリングは、他の罪でも有罪とされたが、それにはノルウェー人を北欧ナチ親衛隊に入隊するよう仕向けたこと、ユダヤ人を強制収容所に送るための国外追放の幇助も含まれていた。コーニグズウォーター家がなぜ、そっとするような多くの記憶が生々しかった場所に住みたいと思ったかは不明だ*。*ギレム城は、その後グランド・ヴィラと名前を変え、ノルウェーのホロコースト博物館となった。p.177
ニカは、ジャズという音楽の根底にある情熱と悲嘆を嗅ぎ取っていた。もう一つニカが共鳴したのは、多くの女性や黒人ミュージシャンたちも、自由という原則を掲げた苦しく血なまぐさい戦争で闘ったが、その両者が戻った社会が、全体として変化を受け入れようとしなかったことだ。ニカを知るミュージシャンで、レコード・プロデューサーでもあるロバート・クラフトは、このことを非常に簡潔に語っている。「アメリカは確かに自由のために戦争を闘い、兵隊は黒人も白人も遥か遠くに送られて、ヨーロッパやアジアのファシズムや原始時代並みの、信じられないほど苦しい時代にいた人々すべてを解放した。だが黒人兵がアメリカに戻ってみると、自分たちの演奏しているレストランの中に正面ドアから入れなかった。白人向けホテルのステージで演奏していても、そのホテルで眠ることもできなかった。他のホテルに泊まらなきゃならなかった。これまでに、とんでもないほど多くの対立や怒りや争いがあったに違いないし、みんなの目をそのことへ向けさせるのは、当然ながらアーティストの役割だった」。p.193
ニカの友人で偉大なジャズ・レジェンド、ソニー・ロリンズが私に説明してくれたように、アーティストは自分たちの役割を真摯に受け止めていた。「ビバップを演奏していた人たちは、単に才能あるアーティストというだけではなく、一人の独立した人間として認めてほしかったんだ。チャーリー・パーカーはとても威厳を大事にしていた人で、彼は自分の音楽を威厳たっぷりに表現しようとしていた。パーカーは演奏するときに、いつも身動き一つしようとしなかった。ただまっすぐ立って、その姿勢のまま演奏していた。おどけたり、客を楽しませようなんてことはまったくなかった」。クインシー・ジョーンズの意見もこうした考えと同じだ。「ミュージシャンたちはこう言っていた。客を楽しませなきゃとは自分は思いたくない。ストラヴィンスキーとか、誰であれそうしたアーティストになりたい、つまりそれは本物の芸術のことで、踊ったり、目玉をぐるぐる回したり、ミンストレルなんかに合わせて動き回ることじゃなかった」
ロリンズは続けた。「あなたも私も、みんな気づいているように、音楽というのは社会の方針とか愛国心を乗り越えることができる。あらゆる人種的背景を持った人々を、互いに引き寄せることができるのが音楽なんだ」。規則に縛られ、常に階級にこだわる社会で育ったニカは、こうした反抗的姿勢に胸がわくわくし、勇気が湧いてきたのだ。「ジャズは反抗的であり、魅惑的であり、胸が躍るようなものだった。男爵夫人はそこが気に入ったんだ」と、モンクのマネージャーだったバリー・コロンビーは語っている。pp.193-
パーカーは駅へ向かう途中でスタンホープ・ホテルに立ち寄ったが、そこならニカが食べ物や飲み物、それにひょっとして金もくれるだろうと思ったからだ。ニカは珍しくその晩、娘のジャンカと一緒にスタンホープ・ホテルの自室にいた*。*ジャンカはこの晩のことを公に語ったことは一度もなく、この件のいきさつを書いたものから除外されてきた。たとえば彼女は映画『バード』にも登場していない。p.252
セロニアスがホテルの別の階の廊下を歩き回るようになったの。赤いシャツを着て、サングラスをかけて、手には白い杖を持ってね。それで誰かの部屋のドアを開けて、中に顔を入れて・・・・・・「ネリーかい?」って言うのよ。アルゴンキンで50年近く暮らしていた年寄りの婦人たちはすっかり怯えて・・・・・・屋根裏のトランクを取りに行かせ始めたわ。もう逃げだすわ、って言ってね。p.264
ジャズ史の逸話が大抵はそうであるように、同じ話でも細部は微妙に異なる。(訳者解説)p.359 というようにこのモンクの逸話は『セロニアス・モンクのいた風景』(村上春樹編訳)でも紹介されていて、「微妙に異なる」細部が認められる。
1969年刊行の「エクスワイア」誌のナット・ヘントフによる記事 p.298
コルタサルの短編「追い求める男」のマルケサ・ティカ p.300
(裁判の判決を前にしてメアリ・ルー・ウィリアムズ宛の手紙(1962年1月15日の前の晩に書いたもの))「そして今、私はセント・マーチンズ教会の外に座って、今日私が体験しようとしていることを、彼らの中の誰かは知っているのだろうかと考えています」と書いたのだ。
楽しい時間を過ごすためにみんながやって来て、食べたり、音楽を楽しんだりして、毎日パーティーが開かれていたような場所を実家にした人間が、たった一人で、人生の一番苦しい時と向き合わねばならないのは異常なことであり、胸が張り裂けそうな思いをしたことだろう。ニカがあれほど寛大に助けてきた人たちは、いったいどこにいたのだろうかと私は思った。pp.304-
ミス・ハヴィシャム ( Miss Havisham ) チャールズ・ディッケンズの小説、『大いなる遺産 ( Great Expectations )』 ( 1861 ) の登場人物で、結婚式当日に婚約破棄されて以来、ウェディングドレスを着たまま暗い屋敷の中に住み続け、隠遁生活を送る資産家の老女。p.308
モンクの話しぶりは大抵の場合ユーモアがあり、明快だが、「突然、交信不能で、放心状態になって、まるでエレベーター・シャフトから底が抜けてしまったようになった。どこか別の場所に行ってしまったようだった」。20分から40分という短時間の、脳の自然な電気活動を記録する脳波スキャン ( EEG ) によるテストも行われたが、EEGがとりわけ明らかにするのは、患者が生涯に摂取したドラッグの蓄積が与える影響だ。「モンクさんの結果は、最高値を指していました」。p.322
モンクは”統合失調症、未分類型“と診断され、強い抗精神病薬ソラジンを処方された()p.323
ラングレー病院に入院中に、モンクはヘンダーソン(Eddie Hederson
ジャズ・トランぺッターにして医学を修める)の同行を条件に、外出してギグを行うことが許可された。この実習中の精神科医は、既に強い薬を投与されているので、気分の変調させる他のどんな薬物はもちろんのこと、アルコールも絶対に控えるようにとモンクに懇願していた。だがクラブに到着した途端、モンクはジャックダニエルをトリプルで注文し、続けてビールを3杯飲んだ。それから少量のコカインをどうにかして手に入れた。それを二つに分けると、モンクは全量を両方の鼻の穴から吸い込んだ。「この時点で、モンクは汗をかいていて、スーツはプールに飛び込んだみたいにぐしょ濡れだった。まさに全身から汗がしたたり落ちていた」と、ヘンダーソンは回想する。「モンクはステージに上がって、指輪を付けて踊り、演奏していた。ピアノに向かって座り、鍵盤を押し込んだが、強くやりすぎてまったく音にならなかった。一晩中、まともなサウンドにならなかった」。その後ヘンダーソンがモンクを病院に連れ帰ると、彼はこう言った。「いいセットだったね」pp.323-
それから多くのロスチャイルド家の人間がそうするように、何の挨拶もしないで、いきなり電話を切るのだ。p.342
Keepnews,
Orrin, Thelonious Monk : The Complete Riverside Recordings ( liner
notes,1986 ) 【日本版あり (セロニアス・モンク 『コンプリート・リバーサイド・レコーディングス』 LP 1986年、CD 1998年)。アクセスしやすいところでは文京区立小石川図書館のレコード室にある。このライナーの翻訳があるか要確認】 p.373
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