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悪いけど、日本人じゃないの、日向ノエミア、柏書房


2018/05/25、悪いけど、日本人じゃないの、日向ノエミア、柏書房

 これは余談ですが、芸術は少し油断しているくらいの時が、一番ひらめくのですね。(東京都立大学の先輩が教えてくれたとおりでした)何かを得ようと必死で観ていた時には何もつかめなかったのだけれど、疲れてぼんやり観ていた時に、すうっと目の前の美が入り込んできたのです。p.50

「どう? 叔母さんから直接(図書券を)もらったほうが嬉しかった?」
「そりゃそうだよ」と、息子は即答します。
「日本には『言葉にする前に形にしろ』っていうのがあるからね。話し合ってからプレゼントなんて、本末転倒もいいとこだよ」p.89

「ほら見て。この日本人がいっていること、何を言っているのか分からないよね。でも日本語だから、みんな安心して聞いているんだよ。これが外国語だったら、あわてて辞書を引いて、完全に分かろうとするんだよね」p.92

「お母さんたら『私は空港にお姉ちゃんを迎えに行かなければならない、行かなければならない(= Eu preciso ir)』って言うのよ。だから言ってあげたの。『行き〈たい〉のなら(= Se você quer ir)連れてってあげるけど、行か〈なければならない       〉ってことはないから』ってね。行き〈たい〉という気持ちをちゃんと表現して、その気持ちに対して責任を取ろうとしないかイライラするのよね」//そこで私は、とっさに、「お母さんは、行き〈たい〉って言ったら、自分の気持ちを出しすぎて、わがままに見えるのがいやで、“行く必要性”にかこつけてしまったんじゃない?」と思わず母を弁護してしまいました。pp.101-

 そう、トゲのあることを言う人は、相手を傷つけると同時に、その人自身の弱さを現わしているわけですものね。()ですから、誤解に満ちた言葉を浴びても、直情的には反論したりせず、「聞かなかったこと」にする。そして以前と変わらず、お付き合いを続けていくのですね。p.129

- 日系二世は、ブラジル人には日本的な面を非難され、日本人にはブラジル的な面を非難されることになります。そんな中、自分たちが受け入れている両文化の割合に比べると、各文化の人に受け入れてもらっている割合のほうが少ないかもしれない、と思うことがあります。//そういうわけで、日系二世であることは「割に合わない」ということになりまーす! p.145

彼ら(ブラジル人)の多くは、言いたいことを言えばけろっとしているし、言われたほうも同じ。傷ついてもすぐに立ち直り、次に会った時には、無邪気に接してくれます。彼らからすれば、それが「おとな」。すぐに意固地になって、なかなか立ち直れない人は「子ども」、なのですね。p.163

- 自分を「出稼ぎのはしり」と、ある新聞のインタビューで言ってみました。//するとどうでしょう。地に足が着き、自分の居場所ができた、そして三十万の友を得た、と感じられるようになったのです。この体験をへて、日本人、ブラジル人を問わず、意識の下に埋もれている差別や誤解、またはプライドを意識化し、それをなくすことこそ、異文化に身を置いた苦しみを乗り越える道なのではないかと思いました。//一方、当たり前といえば当たり前ですが、「郷に入っては郷に従え」というのは、異なる文化にただ従うことではなく、自分自身を見失うことなく相手に合わせていくことだ、ということを改めて感じました。p.183

「日本のチームはよく練習していて優秀。でも、一つ間違えると、また間違えるのが怖くなって、修正ができなくなる。そして、どんどん崩れていく。でも、ブラジルのチームは、間違えても、その間違いにこだわらないので、相手の弱点を見つけて、どんどん創造的になっていく。そこでとっさにできたチームワークが、感動的だった」p.208

 でもそういうのって、くり返しになりますが、ブラジル人に影響されてしまった私には、わざとらしい謙虚さ、もしくは偽善、に映るのですよね。結局自分の立場を偉いものだと思っているからこそ、人に話せば気分を悪くすると思うわけでしょう? そんなふうに属性にこだわるより、ありのままでいいのに、と思うことがあります。p.239

ブラジル人は人に笑われることをそれほど恐れていない上、自分を笑える民族のようです。- 自分を低く見積もって、地に足の着いたところから何かを始められるということなのですものね。一見開き直っているようですが、実は自分を引き受けているのだと思います。自分は大したものじゃない。だけど、そこから出発して何かを生産しようではないか。そう思うことで、自分の背の高さに似合った意欲がわいてくるのでしょう。pp.245-

ブラジルの笑い話の本をどうぞ。//三つご紹介しましょう。一つは醍醐麻沙夫の『ブラジルジョーク集』、もう二つは開高健の『食卓は笑う』と『オーパ!』です。p.258

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