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本当の翻訳の話をしよう、村上春樹、柴田元幸、スイッチ・パブリッシング

2019/06/20、本当の翻訳の話をしよう、村上春樹、柴田元幸、スイッチ・パブリッシング


『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』に比べるとずっと読み手のある作品。

漢語と和語のせめぎ合いという問題は、現在の翻訳でも、少なくとも英語の翻訳に関する限り変わっていません。英語は主に二つの言語から成り立っていて、ブリテン島でもともと使わていたシンプルなアングロサクソン語がまずあって、そこに征服民族のラテン語、フランス語が入ってくる。たとえば、「得る」はアングロサクソン系の英語だとgetですが、ラテン語起源の語ではobtainとかacquireなどがある。この対比は、大和言葉と漢語の対比とほぼ同じだと思います。だから、英語から翻訳する時に、gethaveだったら「得る」「持つ」ですが、acquireだったら「獲得する」、possessだったら「所有する」と訳し分ける。もちろん文脈でいくらでも変わってきますが、そういう原則はしっかりあるべきです。案外問題にされないことですが。pp.104-

柴田 -そういう難しい言葉(vulnerable)は、イギリスの土着的なアングロサクソン語ではなく、ラテン語・フランス語から来ているので、日本語でいう漢語に対応するわけですよね。そのことも訳語を選ぶときに僕は意識します。p.258

 「あひゞき」が後世に影響を与えたのは、なんといっても、この一節に見られるような自然描写です。明治31年に国木田独歩が『武蔵野』を書いていますが、第三章では「あひゞき」を1ページ以上引用し、「あひゞき」を読んで武蔵野の自然美や、落葉林の美しさがわかったと言っています。p.109

それにしても漢語が難しいですね。「承上起下、撇開推拓、転折過渡」とかサッパリかわりませんし、この文章が収録された加藤周一・丸山眞男編『翻訳の思想』(岩波書店)でも「不詳」と註があったりします(笑)。p.116

若松賤子の『小公子』(明治30年〔1897〕)でまっさきにみんな注目する「セドリツクには誰も云ふて聞かせる人が有りませんかつたから」の「~ませんかつた」という言い方にしても、結局は歴史によって選ばれませんでしたが、もしかしたらこれが正統的物言いとして選ばれた可能性はなくはなかったと論じる人もいます(ちなみに森田思軒は若松訳『小公子』を激賞しています)。明治の翻訳を考える上でわくわくするのは、すべてどれが正解かわからない状態でやっていたということです。その後、二葉亭四迷的な翻訳が文学的とされ、ハイブラウな部分ではとそっちに進み、大衆的な面では大岩涙香的な訳が主流になったわけですが、もし言文一致の流れがあれほど大きくなければ、森田思軒のような漢文調がもっと続いたかもしれない。誰もがいろんなスタイルを使えたし、どれが主流・正解になってもおかしくないという緊迫感があった。「である」調か「ですます」調か、程度しか選択肢のない現代よりはるかにスリルを感じます。p.130

 漱石に会えたら「なぜそんなに翻訳に懐疑的だったんですか」と訊いてみたいし、鴎外に会ったら「なんであんなに何でもかんでも翻訳し、紹介されたんですか」と訊いてみたいです。p.142

柴田 そういえば村上さんもイタリアにいらしたんですよね。日本とは違う場という感覚ってありましたか。
村上 うーん、なんでイタリアに行ったんだっけな(笑)。どこでもよかったけど、たまたま友だちがいたからというのはあるけど。小説書くのはどこでもできるので、どこに行ってもいいですよね。あとは、食べ物が美味しいところの方がいいかな(笑)。p.156

柴田 - チーヴァーと一番似たような印象を持たれるジャズミュージシャンはいますか。
村上 白人でピアニストのアル・ヘイグかな。スタン・ゲッツと一緒にやった人ですけど、非常に知的で自分の世界を持って完結していて、趣味のいいスタイルを持つピアニストです。バップから出てきた人だけど、70年代まで生き残りました。pp.173-

村上 -「リッチ・ボーイ」は僕も訳したけど、どこから見ても見事に書けている。その書き込み方は、短編の原型として、一種の黄金律として、今でも僕の中に残っています。
柴田 「バビロンに帰る」はどうですか?
村上 とてもよく書けているけど、「リッチ・ボーイ」の盛り込み方、膨らませ方の妙に僕はどうしても魅かれるんです。あれはまさに芸術品ですよ。p.193

 昔は短編からふくらませて長編を書くということもありましたが、最近はないですね。『女のいない男たち』のいくつかの短編について、「続編はないんですか?」と訊かれるんですけど、もうひとつそういう気がしないんです。たぶん僕の中での短編の位置が変わってきたんだと思います。pp.196

柴田 藤本(和子)さんの訳文って、日本語としてすごく自然というわけではないんですよね。
村上 翻訳というものは、日本語として自然なものにしようと思わない方がいいと、いつも思っているんです。翻訳には翻訳の文体があるわけじゃないですか。
柴田 僕は文章のスピード感だったり、緻密な感じ、緩い感じ、自然な感じなどといったことを、原文と等価に再現したいと思っています。自然な、誰にもわかる文章が、自然でない訳文になってしまうことがないように気をつけたいと思っているわけです。ところが、藤本さんの翻訳を読んでいると、そのあたりのことを考えすぎてもよくないのかと思います。訳文をつまらなくするというか。
村上 翻訳には翻訳の文体があっていい。僕が自分の小説を書くときの文体があり、そして僕が翻訳するときの文体というものがもしあったとして、両者は当然違いますよね。会話がまず違ってくる。p.215

村上 実はユダヤ人って野球からはずいぶん排斥されていたんです。ユダヤ系の選手ってほとんどいないと思う。野球の世界ではかなり苛められていたはずなんですけれど、どうしてバリバリのユダヤ系であるロスもマラマッドも、野球を取り上げたんだろう。ちょっと不思議な感じがします。広島にシェーン(リッチー・シェインブラム)っていう選手が来てたことがあるんだけど、僕が覚えているなかでは彼くらい。彼はたしかユダヤの祭日に試合を休んだんですよ。p.226

村上 うん。あと、(一人称の「僕」「俺」「私」は)Kindleかなんかでボタン押すと変わるとか(笑)。p.252

村上 -東京泰文社も面白かったね。お店の人が古本一冊一冊に帯を巻いて、無茶苦茶な邦題をつけていたじゃないですか。
柴田 そうなんですよ、あれが楽しくて。
村上 『鷲は舞い降りた』という映画にもなった本があって、英語だとThe Eagle Has Landedなんだけど、あれを『鷲は土地を持っていた』と訳していて、それはないだろうって思った(笑)。p.276

村上 1980年代に『ガープの世界』映画版の試写会に行ったら、川本三郎さんと青山南さんがいて、題名のThe world According to Garpをどう訳したらいいか、みんなで話したんです。『ガープに沿った世界』はどうかとかなんとか。僕は『愛は夜霧に濡れて』でいいじゃない?と(笑)。
柴田 青山さんは『ガープが世界を見れば』だって言ってましたね。p.277
← この辺り、青山南側の証言は「ガープ戦史」(『ピーターとペーターの狭間で』所収)で読むことができる。青山さんのエッセイも面白いよね。

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