2018/07/30、アンダーグラウンド、村上春樹、講談社文庫
7月の刑執行の報に触れ、読む(*)。村上さんが何度も言っているように、オウムというのは日本の影であり、日本が直視すべきなのにできなかったものに他ならないと思う。オウムは日本(我々)が生んでのあり、四半世紀近く経った現在においても、こうした状況は変わっていないと痛感する。だから、オウムなるものは2020年代を目前にした現在も、私が知らないだけで、存在すると思わざるを得ないのだが、どうしたものとして醸成されているのだろう?つぎはどうした姿で出現するのだろう?
*村上さんの作品で読み残しているのは『少年カフカ』『約束された場所で』『東京するめクラブ 地球のはぐれかた』『若い読者のための短編小説案内』の4冊となる。
この事件の場合、何がなんだかわからないままに、ある日いきなり死の淵に引きずり込まれたわけです。そこに居合わせた方々にとって、それは底知れぬ恐怖の体験だったはずです。おまけにサリンの怖さというのは、これまでに一度も言語化されたことのない種類のものです。こんな事件はまったく未曾有のものですから。だから被害者の方も本当の意味では、そのときの恐怖感をまだきちんと言語化できていないのだと思います。結局うまく言語化できないから、そのかわりに身体化するしかないということになります。感じていることを言語に置き換える、あるいは意識化する回路ができていません。だから仕方なく無理に抑え込んでしまおうとする。でもいくら懸命に意識で抑え込んでも、身体の方は自然に反応してしまします。それが「身体化」ということです。pp.126-
「ひとつひとつの証言の中で語られた事実のヴァリファイ(裏をとること)はしなかった」p.756とあるので「満州からウクライナのタシケントに送られまして」p.673とあるのは、「ウズベキスタンのタシケント」だとしても、そのままにしたのだろう(か)。
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