2019/09/26、フロイトのイタリア、岡田温司、平凡社
p.30-1, 39-2, 93-2, 99-1, 112-2,139-2, 140-1,
160-2, 165-2, 172-2, 175-3, 181-3, 182-1/2, 237-2, 239-2, 248-2, 259, 260-3, 268-2,
280-2, 285-3
ブダペストにいるフェレンツィのもとに、《モーセ》の全身が画面いっぱいに写っている絵葉書(図60)が送られてきている。そこにはただ、彫刻の足元に、1913年9月13日の日付と「拝復、ミュンヘンでの会議については君とまったく同意」(6 :506)とだけ書かれているのである。「ミュンヘンでの会議」というのは、その年の9月5日から9日まで開催された国際分析学協会のミュンヘン大会のことで、このとき、スイスの優秀な弟子ユンクとの決裂が決定的になったといういわくつきのものである。この会議を終えるやすぐにフロイトは、ウィーンに引き返すこともなく、ミュンヘンから直接ローマに向ったのだった。とすれば、もうひとりの優秀な弟子に送られたこの《モーセ》の絵葉書は、ひじょうに象徴的な意味をもっていたことになるだろう。p.225
アーネスト・ジョーンズらをはじめとする多くの研究者によれば、アロンに先導されたユダヤの民に怒るモーセとは、ユンクやアドラーらのアーリア人系精神分析の背反に怒りを隠せないフロイト本人のことであり、その怒りを抑える理想的なモーセとは、いわばフロイトの超自我にほかならない、と読み換えることもできるのである。この分裂が表面化した1913年9月のミュンヘンでの国際分析協会の大会の後、直ちにローマ入りしたフロイトが、忠実な弟子フェレンツィに、ミケランジェロの《モーセ》の絵葉書を送ったことを、ここであらためて思い出しておいていいだろう。つまり、フロイト本人が半ば公然と、自分をモーセになぞらえていたのである。
pp.249-
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