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人間の解剖はサルの解剖のための鍵である、吉川浩満


2018/10/07、人間の解剖はサルの解剖のための鍵である、吉川浩満、河出書房新社

1、大澤、千葉、著者による鼎談は、ジョルジュ・バタイユが追求していたことを、バタイユとは違う視座から話題にしているように読め、バタイユの関心がクリアに、アクチュアルに(もしくはアップ・デートされたように)感じられ驚いた:「お前がここにいなければ超越論的主観はないのだ」というベタな事実を無視できない。つまり、超越論的レヴェルと経験的レヴェルとのあいだにある緊張関係が、アンチノミーがあるのです。カント、あるいは現象学者でさえ超越論的主観というとき、どこかあの世にいるかのような説明になってきます。それをストレートに超越論的主観はマテリアルに受肉しているというところに戻してきた。(p.184

//そもそも絶滅について考えていること自体が不思議なわけですよ。思考不可能だといっているのに思考しているわけなんだから(笑)。(p.185//「不可能なもの」「否定神学的」「神が死んだ=絶滅したということが重要」「神学なしでどう考えるか、です。あるいは神がすでに死んだ状態のなかで宗教をするとはどういうことかがポイントとなるのです」・・・
https://menandrepremier.blogspot.com/2018/10/blog-post.html


2、本書は、著者の来るべき作品『人間本性論』の「副産物」」(p.8)、一里塚という位置づけだが、「人文学の「失われた20年」の空白を埋める本が出たと思いました。この本は、ニューアカデミズムの象徴となった、浅田彰『構造と力 - 記号論を超えて』(勁草書房、1983)の、いわば裏面史ですよね。そして、その裏面こそがじつはグローバル・スタンダードであったという、表裏の反転が楽しい本です」(p.273)、「「啓蒙思想2.0」は、科学的な人間本性論をもたなかったかつての啓蒙思想(1.0)のアップグレード版として構想されている」(p.290)と他人の作品を評したところ、これは著者吉川が自作である本書を語っていると感じた。

()諸科学と諸技術は今後の我々の社会と生活に甚大な影響を及ぼすにちがいない。人間(再)入門が必要であるゆえんだが、そえに加えて私自身の個人的な動機もある。それは、近年の人間社会、というのが言いすぎであれば、少なくとも近年の先進資本主義諸国に特有の精神的状況(カール・ヤスパース)にたいする気がかりである。//特有の精神的状況とは、ひっくるめて「自信のなさ」とでも形容できるような状況である。たんに自分の地位や能力に確信がもてないだけであれば普通のことだが、それがきわまったすえに裏返って自他への攻撃となってあらわれているように見える。各国の極右政党の伸張にみられる夜郎自大な自国中心主義、人種差別主義、性差別主義や排外主義、人工知能をはじめとする先端テクノロジーがもたらすだろう社会変化への漠然とした不安、そのさらなる裏返しとしての夢想的なシンギュラリティ待望論、等々。こうした状況をもたらした直接的な要因は経済 - 長引く不況と経済構造の変化 - であろう。だが、その背後にはより長期にわたる歴史的文脈が控えているのではないか、というのが本書の見立てである。それは人間にかかわる思考枠組の変容、我々人間の自己のイメージの変容である。pp.13-cf.p350

 VK検査も「スキンジョブ」も、なんとかして人間論的差異を隠蔽しようとする人間の涙ぐましい努力のあらわれである。だが、これは2019/2049年の世界に限った話ではない。人間は、弱ったり自信がなくなったり追いつめられたりすると、容易にこの罠にはまってしまう。たとえば、現代のネットを跳梁跋扈する排外主義者たちがバッシングの相手に対して行う「在日認定」などは「スキンジョブ」の別名であり、想像的・恣意的なVK検査の運用といえるだろう。彼らは、日本人としてどのように生きるかではなく、だれが日本人であるのかという尺度にしか拠りどころをもてないところにまで追いつめられている。これは我々自身の問題でもあるのだ。p.350cf.pp.13-

 フーコーのいう人間の終焉とは、そうした人間の経験的=超越論的二重体としてのあり方が失効する事態を指している。我々ひとりひとりが死ぬという当然の予想でもなければ、人類が滅亡するというノストラダムス的な予言でもない。それは、経験性と超越論性の均衡というアクロバットがうまくいかなくなるということも(で ?)ある。//フーコーは、人間の終焉を告げる(当時の)新しい学問として、フロイトにはじまる精神分析とレヴィ=ストロースらの文化人類学とを挙げた。これらは近代における人間の定義であった合理主性と主体性を切り崩す。フロイトの精神分析において、人間は合理性とはほぼ遠く、無意識的な性と死の欲動に突き動かされている。レヴィ=ストロースの文化人類学において、人間は主体性とはほど遠く、文化や言語の構造の一要素にすぎない。p.17

絶滅は哲学的にも興味をそそられるテーマだ。たとえば、生物個体としての自分の死は避けがたいものだとしても、生物種としてのヒトの絶滅をなぜことさら避けなければならないのかという議論がある。実際、これまでほとんどすべての生物種が絶滅してきたというのに、なぜヒトだけが絶滅してはならないのかを説得的に示すのは難しい。他方で、ヒトは絶滅しない、あるいは絶滅してはならないという想定がなければ人間の倫理一般が成立しなくなるのではないかという議論もある。また、()絶滅は近代的な人間観によっては思考することが難しい対象である。それは経験的=超越論的二重体としての人間の成立根拠そのものを無に帰してしまうからだ。近年の哲学界において注目を集めている思弁的実在論/新実在論は、経験的=超越論的二重体としての人間という思考枠組そのものからの離脱を宣言したが、このアイデアを導入することで従来とは異なるしかたで絶滅を思考できるようになるかもしれない。p.33

テクノロジーによって生まれるかもしれない新しい存在は、少なくともその最後の世代は、それを設計した人間の発想に大きく影響をうけていることでしょう。グーグルの人工知能アルゴリズムが人種差別的ともいえそうな検索結果を表示したり、マイクロソフトの人工知能チャットポットが性差別的・人種差別的・ナチス礼賛的発言を連発して降板させられたりした出来事は記憶に新しいところです。これらはレイシストでありセクシストである私たち自身の似姿にほかなりません。そう考えると、新世代の最初の一歩をどうサポートするかという点で、旧世代の掉尾を飾る私たちの責任は重大です。p.53

実際に食物連鎖の頂点に君臨しているのですから、ノブレス・オブリージュ的な責任と義務は避けられないのではないでしょうか。つまり、幸福になるだけでなく、幸福になるに値する存在になることをも追及する。少なくとも後者について生物種としてのサピエンスの成績はこれまでのところ不合格です()。p.54

 人間の思考の大部分はヒューリスティックにもとづいているといわれている。ヒューリスティックスとは、問題解決に際して時間や労力をかけずにおおよその解を得る手続きを指す。経験や習慣にもとづいた直感的判断などがこれに当たる。それにたいして、一定の手順に従うことで必ず正解を得る手続きをアルゴリズムと呼ぶ。コンピュータ・プログラムがその典型である。ヒューリスティックスは省資源で素早くおおまかな解をもたらすが、一定の偏りを含むことが多い。この偏りがバイアスであり、人間の思考に系統的な誤りを呼びこむ。1970年代以降、このヒューリスティックスとバイアスの研究によって、人間の思考にかんして注目すべき知見が着々と積み上げられてきた。//研究の当事者たちはフロイトの継承なんて冗談じゃないと考えるかもしれない。だが、ヒューリスティックスとバイアスにかんする研究が実証してきたのは、人間が種々の誤り、勘違い、自己欺瞞を避けられない性向をもつという事実である。要するに人間の思考は人間本性によって裏切られるということであり、これこそがフロイト革命の大義にほかならない。p.62

((フロイトが出てきたが・・・)ユングのタイプ論(内向・外向。思考/感情、感覚/直観)でいうと、ヒューリスティックス(System 1)は感情・直観、アルゴリズム(S2)は思考・感覚)なのかなという感想を持った)


いま、これら()の学問が自然科学/社会科学/人文科学の諸領域を横断しつつ、もっとも有望な人間本性論を形成しつつある。//とはいえ、革命の第二段階は第一段階とはずいぶん趣が異なる。かつてフロイトが見出した種々の症例とその解釈は人間の思考、なかでもその合理性と主体性にかんする幻想を打ち砕いた。第二段階においてもこの傾向は健在である。しかし口述するように、それが示唆するのは、人間の思考を誤りや混乱に導くのは不合理性ではなく、むしろ複数の合理性の競合と相克にほかならないということである。p.63

人工知能関連技術は、これまでその実現を阻んできた技術的な制約を取り払いつつある。その際に現れてくるのは、()むきだしの問いである。事故が避けられない状況になったとき、自律走行車に搭載された人工知能はどのように意思決定を下すのか。赤ちゃんと老人、ホームレスとドクター、一人の命と五人の命の、どちらを選ぶのか。p.102

プログラムの開発と道徳的原理の選択が直結しているのである。そのときプログラム開発の関係者たちは、さながら学会における倫理学者のように、功利主義、義務論、徳倫理という倫理学の三大勢力に分かれて論争を開始しなければならなくなるかもしれない。そしてその結論そのものがプログラムに実装されるのである。//論争に勝つ(試験をパスする)のはおそらく功利主義である。三派のなかで唯一、功利主義だけが、目的(「なんのために?」)への答え(功利、効用)を計算可能なものとして扱うことができるからである。p.103

 問題は、功利主義の高い要求に我々が耐えられるかということだ。それを自家薬籠中のものとするには、道徳的ジレンマ状況に動じない強い、あるいは鈍いメンタルが必要になる。()功利主義の回答はしばしば我々の義務論的直観に抵触するからだ。かといってそうした直観を押さえ込もうとするのも詮無い試みである。それは脳の古く深い部位で働くアンストッパブルな過程だからだ。p.104

 興味深い研究結果がある。ある共同研究チームが行った世論調査によると、自律走行車が搭載する人工知能プログラムについて、犠牲者を最小限に抑える功利主義的プログラムこそが望ましいと大多数が回答した。だが、いざ自分のことになると話は変わってくる。他人には功利主義的な自律走行車を買ってほしいが、自分はそんな車には乗りたくないという声が少なくなかったのである。最大多数の最大幸福をめざす功利主義的自律走行車は、ドライバーを真っ先に犠牲者に選ぶ可能性があるからである( Jean-François Bonnefon, Azim Shariff, Iyad Rahwan, « The social dilemma of autonomous vehicles », Science, vol. 352, pp.1573-1576, 2016. )。pp.104-

(「自分はそんな車には乗りたくないという声が少なくなかった」ということだが、こうした「本音(?)」はどうやって引き出したのだろう?人前でこうしたことを言えるのはどういった人で何をその支えにしてそうした発言ができるのだろう?)

 倫理学者の伊勢田哲治は、()『倫理学的に考える』(勁草書房、2012)において、()「未確定領域功利主義」を提案している。これは、大多数の成員に共有された現存する道徳規則(「いくらなんでも無実の人を殺すのはよくない」など)を当然のものとして受け入れながら、現存する道徳規則にしたがうだけでは解決できない「未確定領域」においてのみ功利主義を援用するとういうものである。p.107

大澤真幸による時評「原発問題と四つの倫理学的例題」p.107
http://asahi2nd.blogspot.com/2011/06/4-nhk55-5511-151-5-55-5151-51-222-1-at8.html


ジョセフ・ヒースが言っていたことですが、SF史上『ブレードランナー』のどこが画期的だったかというと、広告がでてきたことだと言うんです。オリジナルの『スター・トレック』の未来では、買い物とかしてない感じがしますよね。市場経済がある感じがしない。p.113

自律した人工知能がある種の人格的な存在者になるというのは十分ありえることですよね。おそらくわれわれはいくつかの段階を経て、人間の定義が広がっていうのを受け入れていく。かつては人格的存在者でなかったものでも、いつしか人格的存在者の一員として受け入れることが「自然に」思えるようになる()。p.120

 いま学問の世界で認められているのはダーウィン由来の進化論です。これは生物の進化に目的や目標を認めません。生物の進化を左右するのは目的や目標でなく、偶然です。進化は単なる結果でしかなく、それ自体ではよいものでもわるいものでもありません。だから生物間に優劣の序列もありません。進化の目的や生物の序列といった発展的な考えと手を切った進化論です。p.139

(「適者が生存する」という疑似法則について 引用者)適者生存の原理は「生存」によって「適者」を定義するものですから、結局のところそれは「生存する者は生存する」という同語反復になるしかありません。検証をまつまでもなく、つねに正しい命題です。p.143

全生物種の99.9パーセントを占める絶滅の側から生物の歴史を見たとき、そこには能力的に優れた生物種から残念な生物種まで、ありとあらゆるヴァリエーションがあったことがわかる。//この事実を正面から受け止めたとき、どのような教訓が得られるか。それは、生き物たちの存亡を左右した決定的な要因は、能力そのものでも運そのものでもなく、運によって能力の定義自体が変わってしまうという歴史の「理不尽さ」にあるのだということです。pp.147-

千葉 出来事に反応するのは「理解」であり、因果性を語るのは「説明」である。
吉川 因果性を語る説明には出来事が占める位置がない。
千葉 ええ、出来事は人文的な「理解」の範疇で、自然科学的な因果性の「説明」の圏域にとってはそれは語りえない剰余である。p.180

大澤 ()人類が絶滅することがないと想定しておかなくては、あらゆる倫理が無意味になってしまう()。これを受けて、私たちの方は、今度は、絶滅ということを積極的に視野に入れて、なお倫理が可能か、という問題をたてることができる。//私の理解では、SRspeculative realism)はこの問題だけでなく、認識論・存在論を含めて哲学一般の条件としてさらに拡張していきます。つまり、認識するものが絶滅してしまってなお、実在ということを有意味に言うことが可能なのか、という問いです。p.181

3.11の津波と原発事故があったことをきっかけにして)大澤 ()普通将来世代と言うとき、孫がいて曾孫がいて……というように未来に誰かが存在していることを前提にして考えますが、一万年くらい先になるとそもそも人間がいるかどうかもわからない、むしろいない可能性のほうが高いわけです。さらに言えば、人間どころか生物すらいないという可能性もある。そうなると、カントが問題にした実践理性の条件となっている超越論的仮象というか、「霊魂の不滅」のようなタイプの超越論的仮象すらも成立しない状況になっているわけです。それでもなお倫理ということが言えるのか、という問題意識が私にはあります。将来の世代がいなかった場合、倫理を考えること自体無意味になるのかというと、そうではない気がしているのですが、そのような倫理をどのように表現するかということは非常に微妙な問題です。p.185

 (大澤) 終末論的に本当のことを言えば、キリスト教では、ある意味、いったん終末を迎えてしまっているのですね。救世主がすでにやってきて、しかも死んでしまったのですから。それ以降は、論理的に考えて、終末後(絶滅後)です。言い換えれば、キリストが復活したということにするのは、「終末後」を、終末以前に差し戻す、まだ終末が来ていないということにする、というのと同じです。これは、絶滅の問題までも「適応」の枠内で処理しようとする適応主義の宗教版です。私たちは、しかし、「終末後」という問題圏に留まるべきではないか。それを終末以前に戻してしまってはいけない。//()絶滅の問題というのは、神が創ったこの世になぜ悪があるのか、という一神教の問題と対応します。pp.193-

千葉 つまり、「絶滅するんだからどうなっても構わない」というのとまったく同一平面上で利他的でありうることは可能か、という問いになるのではないでしょうか。p.202

内容は、2018年中にも一般販売が開始されるというクリーンミート(動物の幹細胞を培養してつくる食肉。培養肉)にかんするもの。ドーキンスは2018年三月三日のツイートで、クリーンミートを長い間待ち望んできたとしたうえで、「人肉を培養したらどうなる? 我々はカニバリズムにタブーを克服できるだろうか?」という問いをフォロワーに投げかけたのである。()ここで彼は、()近い将来に我々が直面するであろう問題を先んじて提示する()。p.220

()新作能、たとえば脳死を主題にした『無明の井』、朝鮮半島からの強制連行を主題とした『望恨歌(マンハンガ)』、広島の被爆を主題とした『原爆忌』といった作品群がモチーフとしているのは、人びとにとってまったくの偶然にすぎない事象が、どうしたわけか彼らの身の上に降りかかり、そして逃れたい必然となってその後の人生を縛りつけていく次第である。こうした偶然の必然化という事態を、我々の先人たちは運命と呼んできた。古典ギリシアにはじまる西洋の悲劇が描いてきたのも、多田富雄が新作能を通して描きだそうとしたのも、この運命というモチーフにほかならない。p.237

()運不運といった偶然的要素は、できるだけ道徳的判断から排除されるべきノイズであるどころか、そもそも道徳的判断そのものを可能にする必要条件なのだという洞察である。逆にいえば、運不運という偶然的要素を排除するならば、我々は道徳的判断そのものを失ってしまうということだ。(バーナード・)ウィリアムズのゴーギャンは、我々の道徳が見て見ぬふりをしている要素 - 行為がもたらす結果にかんする運 - にスポットを当てることで、その制約と限界を明らかにするのである。p.258

 ある行為についての道徳的な価値が偶然的な結果によって遡及的に決定されるという事態は、カント主義ひいては我々が通常行う道徳的判断にたいする根本的な挑戦である。実際、先に述べたように、「想定外」という言い訳もその言い訳にたいする告発も、どちらも同程度の正当性しかもちえないように思われる。そこからは、我々の道徳的判断全体にたいする懐疑論が生じてくるかもしれない。そのようにして生まれた懐疑論は、運不運という偶発的要素を道徳の体制にたいする脅威として対立させ、その土台を掘り崩すように思われる。//しかし、後に書かれた自註「追伸」において、論文「道徳的な運」が懐疑的議論を推し進めるものとして誤読されたと記しているとおり、(バーナード・)ウィリアムズはそのような懐疑論を拒否する。彼が懐疑論を拒否するのは、意志と責任を中心とした道徳(morality)を維持するためでない。運の介入という問題を、より広いパースペクティヴ、人はいかに生きるべきかという問い全体にかかわる「倫理」(ethics)のうちに位置づけるためである()。//そこで彼が向かうのはアリストテレスが示したような徳(virture)の倫理である。アリストテレスは、我々の道徳的な営みが運によって容易に傷つけらうることをよく理解していた。必要な手立てを運よく持ち合わせていなければ、我々は善い行為をすることすらできない。その意味で、我々の道徳的な営みは、それ自体が幸運の賜物である。アリストテレスの倫理学は、近代の道徳思想が非本質的要素として排除するであろう事柄 - 友人や富や政治権力、容姿や生まれのよさといった外的な善 - をも含み込んだ徳のありかたを探るのである(アリストテレス『ニコマコス倫理学』岩波文庫)。p.261


()前者(義務論(直観主義/カント主義))は万人共通の善悪を想定し、後者(功利主義(帰結主義))は社会全体の幸福の最大化を想定している。そこに欠けているのは、どうしようもなく偏った自らの存在の自覚と、それでもなおそれなりに公平であろうとする希求とのあいだの葛藤であり、それを抱えたまま生きていくしかない我々の現実的なありかたである。この点について大きな示唆を与えてくれるのが、バーナード・)ウィリアムズの問いを正面から受け止めた哲学者の古田徹也の好著『それは私のしたことなのか - 行為の哲学入門』(新曜社、2013)である。p.263

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