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試験に出る哲学、斎藤哲也、NHK出版新書

2018/11/25、試験に出る哲学、斎藤哲也、NHK出版新書

「デカルトやカントは100年に一人の天才だが、アリストテレスとライプニッツは1000年に一人の天才」(p.131 坂部恵の言葉として)。このライプニッツの考えが本書でもよく分からかったし、異様な感触が残り、気になった。巻末ブックガイドでは「ライプニッツは手頃な入門書は少ない」(p.254)とある。見上げても頭が雲に隠れて見えないくらいの巨人なんだな、ふーむ。

三段論法では、最初に普遍的な命題である大前提を立てて、そこから一般的な結論を導きます。逆に、「人間は死ぬ」のような大前提となる命題そのものを導くことはできません。三段論法は、新しい知識を発見することはできないのです。p.110

ヒュームは情念や道徳に関しても、後世に重要な示唆を与える議論を展開しています。たとえば、「理性は情念の奴隷である」という感情優位の道徳論は、現代の道徳心理学を先取りするものでした。ヒュームの哲学はいまなお、アクチュアルな問題意識とともに解釈され続けているのです。p.153

精神が成長することは、対象(リンゴ)がその姿を変えていくことでもあるのです。//しかもその対象は、物理的な自然に限定されません。自分というものの存在、他者との人間関係や社会制度、文化、宗教など、世界のありとあらゆる事象が、精神(サングラス)の成長とともに理解されていく。したがって、私の精神が成長して、世界のことを多く知れば知るほど、世界の側も新たな表情を帯びていくことになるわけです。p.170

 1806年に、ヘーゲルはドイツに侵入するナポレオンを目撃し、「今日ぼくは、馬上の世界精神を見た!」と手紙に綴っています。世界精神は、それぞれの時代において、有名無名の人々の行為意を通じて自らの本質である自由を実現していくのです。p.171

 ニーチェはさまざま著作で「真理」という概念を攻撃します。プラトンのイデア論以来、西洋哲学が手を替え品を替え、真理について語り続けて来ました。そこに共通するのは、私たちが感覚で捉える現象の背後には真理の世界がある、とする発想です。p.197

ニーチェは単なる相対主義を唱えたかったわけではありません。世界は解釈にすぎないと居直るだけでは、ニヒリズムから抜け出すことはできないからです。
 絶対的な正しさや真理がない世界のなかで、ニヒリズムに陥らず、強く生きるためには何が必要か。その答えが代表作『ツァラトゥストラ』などで示されている「永遠回帰」と「超人」という思想です。
 永遠回帰とは、宇宙が同じ状態を何度も繰り返すことをいいます。もちろん、そんなことはありませんが、重要なことは、なぜニーチェが永遠回帰という発想を提出したのかを理解することです。
 たとえば、永遠回帰しない世界を考えてみましょう。キリスト教では、世界の終わりには最後の審判がくだり、そこで救われるものと救われない者が選別される。ヘーゲルは、自由の拡大として世界史を捉えました。どちらも世界はやがて真理を現すことを前提としている点で共通しています。このことからわかるように、永遠回帰のない世界は、真理という考え方を呼び込みやすいのです。
 ニーチェが断固として否定したかったのは、現実から逃避して、「いま・ここ」とは違うどこかに生きる意味や目標を見いだす態度でした。
 人が現実逃避しない世界とはどのようなものか。その答えが、「いま・ここ」が何度も繰り返しやってくる永遠回帰の世界でしょう。
 「永遠回帰」は、つらい人生を歩んでいる人間にとってはあまりに酷な世界です。しかし、これを「思いどおりにならない人生」の極点と考えてみたらどうでしょうか。それでも自分の人生を肯定できるか、とニーチェは問いかけています。厳しい問いですが、肯定しないかぎり、自分の人生は救われないのです。
 そして、どこまでも自己肯定を貫く生き方のモデルこそ、ニーチェのいう「超人」にほかなりません。超人は、永遠回帰すらも運命として肯定的に受け入れ、常に自分自身の内側からの生の充実を感受できるような存在です。ニーチェは『ツァラトゥストラ』のなかで、「人間は克服されるべき存在なのだ」と述べたのち、「超人」を次のように表現しています。

超人とは、この地上の意味のことだ。君たちの意志は、つぎのように言うべきだ。超人よ、この地上であれ、と!(『ツァラトゥストラ(上)』丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、20頁)

 わかりやすくいえば、何かのために生きるのではなく、生きることそれじたい(=地上)から充足を得よ、ということです。超人を高すぎる理想と思うかもしれません。でも、ルサンチマンやニヒリズムに囚われたままでは、前に踏み出すことはできないこともまた確かでしょう。pp.203-

  19世紀後半のアメリカにプラグマティズムが生まれた背景として、南北戦争による分断があることが指摘されています。またアメリカには、多様な文化をバックグラウンドにもつ人々からなる社会です。異質な人々が対立することなく共生するにはどうすればいいか。デューイの「民主主義」は、単なる机上の空論ではなく、それ自体が、アメリカが直面する社会課題に対する解決を示すものでもあったのでしょう。p.216

大戦直後の194510月、サルトルがパリでおこなった講演には、大勢が詰めかけ、翌日の新聞では「文化的な事件」として報道されました。//この講演は、のちに『実存主義とは何か』という書名で刊行され、世界中でベストセラーになりました。pp.234-

サルトルは、個人が何かを選択したことの責任は、人類に対する責任でもあるといいます。たとえばサルトルによると、誰かと結婚することは、人類に対して「一夫一婦制」という制度の支持を表明することになるのです。
 したがって、個人が自由のもとで何かを選択することは、何らかの社会や組織、制度にコミットすることでもある。このことをサルトルは「アンガージュマン」という概念で説明しました。英語でいう「コミットメント」です。
 アンガージュマンは、自己拘束や社会参加などの意をもちます。すなわち、自分をある社会状況に投げ込んで自らを拘束すると同時に、自分の自由な行為によってその社会を新たにつくりかえていかねばならない、ということです。pp.237-

 キルケゴールは当初、彼の出身であるデンマーク以外ではほとんど無名でしたが、20世紀に入ってハイデガーやヤスパースらに大きな影響を与えたことで、その名が世界的に知られるようになりました。p.239 memo :『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』、実存の三段階、美的実存、倫理的実存、宗教的実存p.232

 ウィトゲンシュタインは、家族写真に見られるような、ゆるやかな類似性のまとまりを「家族的類似性」と呼んでいます。
 言語ゲームや家族的類似性という考え方には、本質主義的な考え方の否定を示唆するものでもあります。p.249

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