2018/11/30、現代を生きるための映像ガイド、現代思想3月臨時増刊号、青土社
小津の『秋刀魚の味』が取り上げられていると知って手にする。冒頭に原一男へのインタビューが載っていて驚き急いで読む。他、森達也、合田正人のそれぞれのユダヤ人、ホロコースト関連記事、河本英夫の『マルホランド・ドライブ』論、新田啓子の『私はあなたのニグロでない』論、今村純子の『秋刀魚の味』論、粥川準二の『ガタカ』論を読む。倉谷滋の『ブレードランナー』論を始め、読みたいものばかりだがいつの日かに。吉川浩満の『猿の惑星』論は単行本で読了済み。
何回か怒鳴り合いの場面にも遭遇しました。でも、最終的に柚岡さんは妥協するんです。全体の戦術としてみんなで意志が一致しないと前に進めないとなると、自分の意見は引っ込める。それで妥協した後にぐずぐず愚痴を言うんです。そこが柚岡さんの魅力ですね。p.12 原一男インタヴュー
「この映画を観たあなたたちは、戦後史のなかでどういう風に生きてきたのですか。今後どういうふうに生きていこうとしますか」という問いかけをどれだけ映画のなかに込めることができるのかと考えました。//私たちは映画の商品をつくるという感覚がほとんどなく、自分たちのやりたい映画を現実に借金を背負いながらつくってきました。自分がどういうふうに生きるかという問いに対して、映画をつくることで解き明かそうとすることが、私にとっての映画づくりです。p.15 原一男インタヴュー
― 作品(『ニッポン国VS泉南石綿村』)の中では、職人としてのプライドを持ってアスベスト工場で働き、家族を養ってきた方たちのお話を多く伺うことができます。
原 この点に関しては柚岡さんもこだわっているのですが、裁判ではその被害性を強調します。でも、その一面だけではない。アスベストに行くと給料がほかより少しいい。そこに出稼ぎ感覚で行って稼げたから、子どもを育て上げることができた。そして、20~30年間働いていると、技術も習熟してきます。それで会社に信頼され、自身の誇りになっていく。アスベストという産業が持っている非人間性は確かにあるのですが、しかしその反面、仕事による誇りもあるのです。//そこに自分が確かに生きてきたというアイデンティティがある。ですから、表層的に問題を知ってアスベストを全否定するようなことはなかなか言えません。映画は感情のディテールを描くということですね。
― まさに被害者の方々の生きてこられた歴史を多く読み取ることができます。p.16 原一男インタヴュー
私は長く映画をつくってきて、今沸々と燃え滾っていることがあるんです。というのも、この「ニッポン国」を実体として描きたいとずっと思ってきたんです。今回の作品はその一端ですね。今回も厚労省の役人はなかなか上の役職の人が出てこない、それが癪に障ったシーンがありました。ですから、私は権力をもっているやつらを徹底的に暴く映画を絶対につくらなければいけないと、この年になってものすごく情熱に燃えています。p.17 原一男インタヴュー
特定の民族や宗教を差別・迫害しながら外敵の危機を煽るばかりの特定の為政者に熱狂することが、どれほど無慈悲で残虐な事態を多くの人々にもたらすのか。それは可能性ではなくて前例だ。歴史的な事実だ。だからこそナチスやホロコーストの映画は一つのジャンルになった。//ここで少しだけ横にそれるが、今のドイツ(の映画状況。引用者)を日本と置き換えたとき、つまりナチスを大日本帝国に、そしてホロコーストを南京虐殺や重慶爆撃などにおきかえたとき、日本は間違いなくこうしたジャンルの存在に耐えられないだろう。同じ敗戦国でありながら戦後ドイツと日本の意識の違いが、こんなところにも明確に表れている。p.19 『手紙は憶えている』、森達也
この同僚にすでに婚約者がいることを聞かされて流す娘の涙は、この男性と一緒になれない悲しみよりはむしろ、自分の意志によって人生を切り開くことができない痛恨によるものだろう。p.90 『秋刀魚の味』、今村純子(そうだったのか!?よく考えてみよう)
父や兄にはそのことが分からず、彼女の心は、彼女が手繰る洋裁の紐だけが知悉している。p.90 今村純子
実際、もしこの男性との結婚が叶ったとしても、主人公の娘の将来は、「冷蔵庫やゴルフ道具や白い皮のハンドバック」を購入することと幸せを同一視する、消費社会に埋没してゆく長男夫婦の有様と類似したものになっていたであろう。p.90 今村純子
カラー六作目となる本作において、構図、色彩、デザインが極まるのは、偶然出会った海軍時代の部下と訪れたバー街の電灯看板や室内の照明である。p.91 今村純子
岸田今日子扮するバーのマダムと亡き妻が似ていると若干卑猥なニュアンスも含めて主人公は子どもたちに回想する。p.91 今村純子 (「若干卑猥なニュアンス」?)
だが亡き妻と似ていると感じるのは、このバーでかけられている「軍艦マーチ」との協奏によるほうが大きいであろう。ふたたび会うことは叶わないかもしれない、と戦地に赴いたその一瞬の妻との眼差しの交換、それまでの夫婦生活のすべてが凝縮されたその一瞬が、「いま、ここ」に収斂したのであろう。バーの室内を照らす薄桃色の瀟洒な電灯だけがそのことを知っており、主人公を暖かく照らしている。p.91 今村純子(??? バーのママが「どうぞよろしく」と平山に挨拶するショットがあるが、このときの眼差しの交換が、出征のとき、平山夫妻に間で交わされた眼差しの交換と重なる、と言っているのだろうか)
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