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歴史とはなにか、岡田英弘、文春新書


2019/05/29、歴史とはなにか、岡田英弘、文春新書
直進する時間の観念と、時間を管理する技術と、文字で記録をつくる技術と、ものごとの因果関係の思想の四つがそろうことが、歴史が成立するための前提条件である。p.16

歴史には一定の方向がある、と思いたがるのは、われわれ人間の弱さから来るものだ。世界が一定の方向に向かって進んでいるという保証は、どこにもない。むしろ、世界は、無数の偶発的事件の積み重ねであって、偶然が偶然を呼んで、あちらこちらと、微粒子のブラウン運動のようによろめいている、というふうに見るほうが、よほど論理的だ。
 しかし、それでは歴史にならない。英語で歴史をhistoryと言うが、ヒストリーとストーリー(stroy)は同じことばだ。人間にとって、なにかを理解する、ということは、それにストーリーを与える、物語を与える、ということだ。ものごとを、これはなんだ、と名前を呼ぶだけでも、名前という短い物語をつけたことになる。物語がないものは、人間の頭では理解できない。だからもともと筋道のない世界に、筋道のある物語を与えるのが、歴史の役割なのだ。世界自体には筋道がなくても、歴史には筋道がなければならない。世界の実際の変化に方向がないことと、歴史の叙述に方向があることとは、これはどちらも当然のことであって、矛盾しているわけではない。pp.144-

 五代というのは、華北の黄河流域にいそがしく興亡した五つの王朝で、その三つは後唐・後晋・後漢と言い、トルコ人の王朝である。
 960年になって、五代の後漢の皇帝の親衛隊長だった趙匡胤(北宋の太祖)が、クーデターで皇帝の位を奪い、北宋王朝をはじめた。
 この北宋の帝室だが、ふつう、久しぶりに漢人の皇帝があらわれた、というふうに言われている。しかし、正史の『宋史』によると、趙匡胤の父の趙弘殷は、トルコ人の後唐の荘宗の親衛隊長で、その祖先は涿郡、いまの北京の出身だった。北京も、唐の時代には遊牧民の中心地で、755年に唐の玄宗皇帝にそむいて安・史の乱を起こしたので有名な安禄山は、北京生まれのトルコ将軍だった。これから考えると、北宋の帝室も、実は遊牧民の血を引いている可能性がある。
 こうした例から類推すると、10-12世紀の北宋時代に漢人と呼ばれている人たちは、あからさまに言ってしまうと、唐の末から五代にかけての大混乱のなかで、家系の伝承を失って、ごちゃごちゃに混ざり合い、もはや自分たちの祖先がだれであったのか、はっきり覚えていない人たちだったようだ。こうした出自不明の人たちが再統合されて、新たに漢人という形になったのだ。pp.44-

7世紀になって、唐朝が中国を統一し、黄海を渡って軍隊を韓半島南部に上陸させ、倭王の古くからの同名相手だった百済王を滅ぼした。当時の倭のタカラ王女(皇極天皇、斉明天皇)は、倭軍を韓半島に派遣して百済の復興を試みたが、663年倭軍は白村江で全滅した。これで倭人たちは、アジア大陸から追い出され、海のなかで孤立した。
 当時の情勢では、いまにも唐軍が日本列島に上陸して、そこで住民を征服し、中国領にする危険がさし迫っていた。それは現実の危険だった。その危険を防ぐために、日本列島に住んでいた倭人たちと、出自がいろいろ違う華僑たちが団結して、倭国王家のもとに結集した。こうしてそれまでの倭王は、外国に対しては「明神御宇日本天皇あきつみかみとあめのしたしろしめすたまとのすめらみこと」と名のり、律令(『近江律令』、668年制定)や戸籍(『庚午年籍』、670年作製)を整備し、天皇の宮廷に太政大臣、左大臣、御史大夫の中央官職を置き、冠位・法度を施行する(いずれも671年)ということになった。この「日本天皇」の出現が、ふつうに日本の建国と言われる事件である。pp.68-

高市郡(たけちのこおり)というのは漢人(あやびと)、つまり華僑の集落p.91

『日本書紀』の神話は、-ちょうど編纂が進行している時期の、同時代の経験がもとになって組み立てられている。だから、これらは、はるか遠い時代からの記憶が反映でもなんでもない。pp.92-

『日本書紀』の編纂などは、きわめて典型的な例だと思うのだけれども、最初に歴史が書かれるときに、それより古い時代についての物語の材料にされるのは、だいたいが神話なのだ。ところが、ここまでさんざん言っているように、神話というものは、いまある事象の起源の説明として、考え出されたものだ。決して古い時代の記憶じゃない。p.107

『日本書紀』や『古事記』が本来、語っているのは、当時の硬質の祖先がどういう系譜を持っているかということなのに、これを日本民族の由来を語るものというふうに曲解している。日本民族の起源と日本皇室の起源は、ぜんぜん別の問題のはずなのだけれども、いつでも混同する。p.134

落ちついて『古事記』を眺めると、これはどう見ても、『日本書紀』よりは百年ぐらい新しい。明らかに平安朝所期の作品だ。
 だいたい、一番最初に『古事記』を持ち上げたのは、多朝臣人長(おおのあそみひとなが)という、9世紀はじめの『日本書紀』学者だが、この人は、『古事記』の著者ということになっている太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)の子孫である。この多朝臣人長が、813年に『日本書紀』を講義した筆記『弘仁私記』の序のなかに、歴史上はじめて『古事記』のことが登場する。そのなかで、多朝臣人長は、自分の祖先が書いたという『古事記』を熱心に称賛し、『日本書紀』よりさらに古い伝承を伝えたものであると言って、宣伝した。
 ところが、それ以前には『古事記』というのはいっさい、名を知られていなかった。確かに『古事記』には、712年の日付がある序がついているが、その『古事記』には、すでに賀茂真淵が指摘しているように、かずかずの怪しむべき点がある。あれはおそらく、多朝臣人長がつくって、くっつけたものだろうと思うのだ。p.93

まったく空想的な疑似歴史が、なんどもなんども息をふき返してくる。-木村鷹太郎は、日露戦争のあとの1911年、『世界的研究に基づける日本太古史』を発表し、日本人の祖先は古代エジプト人と古代ギリシャ人で、世界のすべての文明は日本からはじまったと主張した。小谷部全一郎は、日本軍のシベリア出兵のあとの1924年、『成吉思汗ハ源義経也』を発表して、大ベストセラーになった。こうした奇書は、時代のふしめふしめにそれぞれ出現したが、なかでも竹内巨麿が1928年に発表した『竹内文書』の内容は奇抜で、神武天皇よりもさらに古い時代には、「日本超古代王朝」の天皇が全世界に君臨しており、太平洋を超えてアメリカ大陸まで支配していたんだというような、新しい神話だった。こうした、出版業界で「超古代もの」と呼ばれるジャンルでは、第二次世界大戦のあとで和田喜八郎が創作し、1975年に公開した『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』というような「古文書」もあるし、それがいまでも、けっこう人気がある。p.101

1924年発表の小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』のもとは、1879年(明治12年)、イギリスのケンブリッジ大学に入学した末松謙澄(後の逓信大臣、内務大臣)が、差別的な待遇が頭に来て、イギリス人をよそおい、匿名で書いた論文だ。それを1885年、内田弥八が『義経再興記』として訳述・出版して、大きな反響を呼んだ。これがいまに絶えない源義経=チンギス・ハーン説の起源だ。pp.111-

華北は、金帝国以前の北宋の時代には、中国でもっとも商業の盛んな地域だったが、銅の鉱山がなかった。銅がなくては、取引の決済に使う青銅銭が造れない。そこで、金帝国では、貨幣の不足を補うために、手形取引が盛んになり、それにともなって、信用の観念が発達していった。pp.155-

モンゴル帝国がユーラシア大陸の陸上貿易の利権を独占してしまったため、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人が、活路を求めて海上貿易に進出したので、歴史の主役がそれまでの大陸帝国から、海洋帝国へと変わっていった-
 ふつう、大航海時代は、1415年、ポルトガルがジブラルタルの対岸のセウタを攻略して、アフリカ大陸の西海岸への航路を開いたときにはじまったことになっている。しかし、アジアでは、すでに1350年に、倭寇が高麗王国の沿岸を襲っている。いずれも、モンゴル帝国に組みこまれずに、そのその外側にとどまった人々が、新たな利権を求めて、海に乗り出したことを示す事件だ。p.157

「民族」という枠組みは、「国家」や「国民」よりさらに新しい。しかも「民族」は、20世紀に入ってから日本にできた観念で、ヨーロッパのどこの国語にも、日本語の「民族」に当たる語彙は存在しない。原語がないのっだから、日本語の「民族」の定義もあいまいなままだ。p.164

 君主制では、権力が世襲されるのではない。人格が世襲されるのだ。人格と言ってわかりにくければ、文化の伝統と権威と言っていい。一人の君主の人格を、その死後も存続させるもの、それが世襲君主の制度だ。p.182

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