2019/08/13、よかれと思ってやったのに、清田隆之、晶文社
衝撃的な読書となった。本書は「ホモソーシャル」という文化規範をあぶりだすが、その指摘に合点がいくことが多く、学び、考えるきっかけになったし、私自身による私自身のアップデートを促す大きな力となったようにも思う。この「ホモソーシャル」なるものに迷惑しているのは、それに馴染めず、不快に感じているのは、女性だけでなく、その「身内」に入らない男性もそうだろう(見方を変えると、名誉男性の女性は「ホモソーシャル」の身内である)。「ホモソーシャル」の内と外は、男性・女性という場合もあるが、権力行為者・被権力者という場合もある。いずれにしろ、内側にいると自覚しにくいだろうし、外にいても、内の価値体系が「ホモソーシャル」だったと気づいていない人は、私を含め、多々いるように思う。そうした人の蒙を啓き、同時に攻撃的・威圧的・支配的な「ホモソーシャル」の内にいる人間に対抗するためのことば・武器が獲得できる本である。時間がない人は各Partの末尾に毎回載っている著者による研究者へのインタヴューだけでも、本当に目から鱗が落ちるような体験になると思う。
不機嫌になると黙る男については(私もそうだ)、私の見解は作者と異なるものの、「感情の言語化」という作者が示す処方箋は、意識してみる。
cf.
少し大きな話になりますが、今の時代、我々男性は「ジェンダー観のアップデート」を強く求められているように感じます。p.12
清田 ()『壊れる男たち』には、事情を聞きにきた相談員の金子先生に対し、「同じ男だからわかるでしょ?」と理解を求めてくる加害者男性や、社長のセクハラを知りながらも、ニヤニヤと見て見ぬふりをした社員たちの姿なども描かれています。このあたりはホモソーシャル(=男性同士の連帯)の問題とも深く関係していますよね。
金子(雅臣) こういった男性たちと日々接していると、彼らは何を一体考えているのだろうか、なぜ自らの犯したセクハラを自覚できないのだろうか・・・・・・という疑問が頭から離れなくなってしまったんです。男たちは壊れ始めているのではないか――。こうした加害者たちの意識を“男性問題”として俎上にあげない限り、問題の本質は見えてこないだろうと思って書いたのがあの本でした。p.54
金子 まずは自分自身の中に眠る差別意識や加害性、現実の都合のいい解釈など、とことん自分の手でチェックしてみることが大切です。そして、自分たちの共感能力の低さや、自分たちが手にしている特権についても今一度見直してみる必要があるでしょう。それがセクハラを“男性問題”として捉えるためのスタートラインだと考えています。p.55
金子 ただ、これら(蔑視など)は言わば間接的な動機です。加害男性はそこから内側、つまり「なぜ自分は触りたかったのだろう」という直接的な動機のところまで降りて考えないのが難しいところで。セクハラ男性たちを見ていると、自らが抱え込んだ閉塞感や虚しさを癒し、その空白感を女性に埋めてもらいたいという期待が見て取れる。自らと向き合うことから逃げ、埋められない空洞を他者への衝動的な攻撃で埋めようとする。それがパワハラであり、それに性的な要素が加わったものがセクハラです。しかし、当の男性たちにその自覚はない。そこにどう入っていくかが「セクハラを男性問題として捉える」ということではないかと考えています。p.60
村瀬(幸浩) 性を学ぶというのは、単に失敗しないため、問題を起こさないためというばかりでなく、自分の心と身体を知り、相手との幸せな関係を築けるようになるというプラスの側面も多々ある。そこもどうかお忘れなく(笑)。p.112
イキることの代償は確実に存在しています。それは「信用を食いつぶす」という代償です。p.119
もちろん、「そもそも自覚する必要ってある?」「男同士で楽しくやっている分には問題ないのでは?」という意見もあると思います。しかし、これは「ホモソーシャル」と呼ばれる問題ともつながっていて、男同士の関係は時として、女性たちに対する差別や排除など、ある種の“実害”をもたらすものになったりします。
そしておそらく、そこで発生する圧力が男性自身を苦しめている瞬間も少なくないと感じます(弱音を吐き合えない、男同士のノリに無理して適応しようとする、など)。だとするならば、改めて見つめ直してみる価値はありそうです(この問題に関しては、150ページから始まる前川直哉さんとの対話でさらに掘り下げます)。p.127
前川(直哉) ()異性愛の下ネタを語ったり、連れ立って風俗に行ったりすることには、「自分たちが性の主体者・支配する側であることを確認できる」という側面もあります。つまり、「俺たちは男だ」という連帯感を得るために女性を必要とするわけです。
津田 なるほど。女性蔑視(ミソジニー)、と同性愛嫌悪(ホモフォビア)をベースにしているというのはそういうことなんですね。()
前川 ホモソーシャルの一番ダメなところって、女性を「女」という記号や集合でしかみていないところなんですよ。女性が自分と同じように社会を担う一員であり、同じよう物事を考え、同じようにさまざまなことを感じながら生きている存在だとは見ていない。p.152
前川 ()働き方って、家に専業主婦の人がいることが前提とされているんですよ。働きながら家事も子育てもできるシステムになっていない。これは新聞社に限らず、日本の社会全体に当てはまる問題です。
津田 ホモソーシャルは社会構造ともガッチリ結びついている、と・・・・・・
前川 だから男性はまず、自分たちが下駄を履かせてもらっていることを自覚するべきなんですよ。以前、女性管理職比率の向上に取り組むカルビーの伊藤秀二社長が「女性が4割いるのが当たり前。女性に下駄を履かせているとの批判があるが。もともと下駄を履いている男性に脱いでもらっているだけ」と発言していましたが(『朝日新聞』2016年10月3日)、本当にその通りだなと。下駄を脱ぐのは勇気の要ることだけど、そのほうが平等で持続可能な社会になるわけで、さっさと脱いだほうがいい。
津田 でも、現実には「下駄を履いているのは一部の勝ち組男性だけで、俺たちはむしろ損ばかりしている被害者だ」って思っている人もかなり多いように感じます。
前川 そうなんですよね。バカバカしいなって思うのは、日本は非常に女性優位な社会だと思っている男性が相当数いるわけですよ。「差別されているのはむしろ俺たちのほうだ!」って。よく持ち出されるのは映画館のレディースデーと女性専用車両の話ですよね。じゃ、わかったと。メンズデーも男性専用車両も作りましょう。その代わり給料は逆にしていいですか? ってなったら焦り出すはずなのに、そこに想像が及ばない。それは結局、自分が男性であることで得をしているっていう意識がないからなんですよね。
津田 ただ、「自分は男だけど賃金は低いし職場もブラックで苦しんでいる」という男性には、男性であることによる“得”が理解できず、「専業主婦という道が用意されている(かのように見える)女性」が優遇されているように映るかもしれません。そう考えるとホモソーシャルって、勝ち組男性たちが生きやすいシステムを維持していくための壮大な“利権団体”のように思えてきました。男の絆って、その利益を享受する者同士の談合みたいなものかも・・・・・・
pp.154-
津田 ヘテロのふりをしていれば、男としての恩恵を享受できる。しかしそれは、ご自身を含む同性愛男性を排除するホモソーシャルに乗っかかることにもなる・・・・・・。確かに難しい立場ですね。
前川 このテーマに関心をもったのは、まさにそのことがきっかけです。自分が踏まれている足より、自分が踏んでしまっている足のこと ― というよりは踏んでいることも自覚していなかったわけですが、その「男性として得をしていること」自体について調べたいと思ったんです。ジェンダー研究のなかでも、「どうやって男たちが社会を独占しようとしてきたか」ってところはなかなか問われない部分だったので、ジャンルとしてはニッチなんですが(笑)。pp.156-
前川 まさにTHE・男子校ですね。「エロの分配」というのはホモソーシャルの特徴なので。でもこれは清田さんの出身校に限った話じゃなくて、ある意味“日本社会の縮図”とも言える。
清田 『男の絆』の帯にも、「この国は巨大な男子校 !?」というコピーが書かれていましたよね。
前川 女性との接点がない思春期の男子高生が女子を性的な対象としてしか見られないというだけなら、まだ「痛い話」で済むかもしれない。()しかし、明治時代のエリート校はすべて男子校で、そこの出身者たちが国や企業の中心を担い、この国の制度やシステムを作ってきた。そういう視点で見ると、もはや社会的な問題ですよね。ホモソーシャルな日本が抱える課題の根っこには、歴史的な検証を積み重ねていくことでしか迫れないと考えています。p.158
前川 ()最も見つめ直さなきゃいけないのは男の絆、つまりホモソーシャルの問題なんですよ。ヘテロ男性をまず語る。実は“正常”とされているヘテロ男性がおかしいんだってところから考えていく。なぜ男たちは女性を排除し、同性愛を排除してきたのか。そこから考えないと何も始まらない。
清田 本当にその通りですね・・・・・・。一方でマジョリティの男性ってなかなか自分に疑問を持ちづらいというか、自分が社会から下駄を履かせてもらっているという意識がほとんどない。そういう男性たちに言葉を届けるのはとても難しいなと感じています。
前川 大事なのは、今のようなホモソーシャルな社会のままだと男性自身も幸せにならないよってことだと思います。p.159
清田 我々男性はこの社会の既得権益層である一方、その社会構造によって苦しめれている部分もある。まずはそのことを認識し、自分にとっての「下駄」と「縄」を、個人個人が具体的に問い直していくしかないと感じました。p.160
中村(正) (DV男に共通する構図、関与するものの)序列や優劣の意識、領域(なわばり)の争い、女性蔑視、所有意識、力に対する欲望、メンツへのこだわり・・・・・・などといった男性に顕著な傾向、つまり男らしさの問題です。p.202
中村 ()「そういった男同士のコミュニケーションの中で知らず知らずの内に刷り込まれていくものとはなんだろう?」という問いが浮かんだんです。明確に暴力とは言いにくんだけど、競争なのか友情なのか暴力なのかよくわからない、まだ名づけられていない領域が男同士の関係にはあるんじゃないか。暴力とコミュニケーションが紙一重な環境の中で男子は自己形成をしていくんじゃないか。DVや虐待問題の根底には、そのような男性性の問題があるんじゃないか――。そんなことを考えるようになったんです。p.206
中村 ()暴力を受けても「被害」と認められないのも男性に特徴的な傾向なんです。弱音を吐けなかったり、人によっては傷を乗り越えたことを武勇伝にしてしまうこともある。そういう中で男性の暴力被害も見えずらくなっていくわけです。p.207
中村 ただ、もちろん言葉にするのは大事なんだけど、今度は脱暴力のプロセスによって“腑抜け”になってしまう男性も一定数いるんです。彼らにとって暴力とはパワーそのものなんですよ。誰かを攻撃することによって自分を奮い立たせてきた人にとって、脱暴力は生きる力を奪われることにすらなりかねない。そういう男性たちに対しては、例えばボクシングのようなプログラムが有効だったりします。つまり「殴るならちゃんと殴れ」「弱い者には手を出すな」と、卑怯な暴力を責任あるパワーに組み替えていくアプローチですね。プロボクサー経験者などが指導に当たっているところも多く、効果もてきめんです。これを「リフレーミング」と言います。pp.210- ここを読んで次の一節を思い出した:松本 信田さんは『依存症』の最後のほうで、依存症からい回復した人の姿は「去勢」されたようだと書かれています()p.81、上段、「斜めに横断する臨床=思想」、信田さよ子、松本卓也、現代思想2018年1月号
中村 ()一方で加害者への対策も同時に進めていくべきだと私は考えています。かつて「売春」を「買春」と言い換え、買う男の問題なのだと読み替えたように、暴力をジェンダーの視点から捉え直し、男らしさに関する問題として掘り下げていく。まだまだ未開拓な部分も多いけど、男が自分たちで言葉を作っていかなくてはならない。私はよく「ワード(word)がワールド(world)を作る」と言っています。言葉がないと現実を認識できないので。でも、既製品の言葉に頼ると単に男らしさワールドが再生産されるだけなので、これを破壊する創造的なワードが必要です。そのためにはまず、競争的・暴力的に陥らない男同士の関係を模索していくことが大切です。そういう意味では、清田さんたちがやっている男同士の恋バナも有用な試みだと感じています。pp.211-
「人から見られているという意識」「他者の声に耳を傾ける姿勢」「自分自身に対する疑い」「未知なものに対するオープンなマインド」「新しいことに挑戦する意欲」p.234
先の知人女性は、変化を嫌うことは「豊かさへの無関心」だと述べていました。未知なものは怖いし、新しいものに慣れるのは大変だし、習慣を変えるのはとても面倒なことです。しかし()大事な人たちとの関係を守っていくためにも、小さな変化を受け入れていく。p.236
須長(史生) ハゲ以外にも、「チビ」とか「デブ」とか「マザコン」とか「足が遅い」とか、いろんな要素で男性たちはからかいや人格テストを仕掛けている。こうやって考えると「そんなもの相手にしなければいいのでは?」とも思うわけですが、それが存在証明に関わる行為である以上、簡単に離脱することができない。無視をすれば「逃げた」ということになってしまう。だからそのゲームに参入せざるを得ない。なかなか厄介な構造です。
清田 バラエティ番組なんて完全にその文法で動いている世界ですよね。p.255
須長 ()個人的には“競争や攻撃を基調としないホモソーシャリティ(=男同士の連帯のあり方)”みたいなものが若い世代から作られるのではないかという期待はあります。p.256
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